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上皇陛下のご生誕日に竣工
新進の建築家でもある高梨四郎氏が、旧大和小学校の設計にあたった。高梨四郎氏は、一級建築士の資格を早くから取得し、山形県建築士会の初代会長を務めるなど、建築界で活躍する一方、県会議員や、「昭和の大合併」で誕生した旧余目町の2代目町長を務めるなど、政治の世界でも活躍した人物である。
新校舎の竣工式は昭和8年12月23日に行われたが、その日は現上皇陛下のご生誕日であった。
廃校と社屋移転が偶然に重なった
昭和52年3月に、旧大和小学校は旧十六合(いざあい)小学校と統合し、新たに旧余目町立第四小学校(現・庄内町立余目第四小学校)が発足した。廃校となった旧大和小学校はいったん農協が買い取って倉庫として利用していたが、やがて不要となってので旧校舎を解体することになった。
一方、昭和41年に設立された庄内測量設計舎は、手狭になった社屋の移転を検討していた。旧大和小学校で学んだ創業者の富樫清社長は、設計者である高梨四郎氏の勧めもあり、旧大和小学校の校舎の一部を解体して現在地に移築し、新社屋としてスタートした。昭和61年1月のことである。
強固な土台で耐震性も抜群
相談役となった富樫清氏(故人)は、「高梨さんに進められなかったら普通のコンクリート社屋を建てていたかもしれません」と話すが、同じく旧大和小学校で学んだ息子の富樫仁社長は、「父も、自分が学んだ校舎を移築して今の社屋とすることに強い意欲を持っていたと思います。廃校舎の移築には、私も含め反対する社員はいませんでした」と、当時を振り返る。
ただ、旧校舎の設計図がなかったため、移築には困難を伴った。そこで、解体の際には壁や柱など1つ1つの建材に番号を振り、2か所にあった階段を社屋の構造上の利便性から逆にした以外は、ほぼ忠実に移築した。また、傷ついた柱にもカンナをかけず、そのまま使用した。さらに廊下に増設した棚なども、旧校舎の雰囲気になじむような作りにする徹底ぶりであった。
東日本大震災でも補修が必要な建物の被害はなかった
もともと田んぼだった現社屋の敷地に廃校舎を移築する前に、コンクリートパイルという、建物の基礎としてビルやマンションなどを支える役目を担う建築資材を地盤中に埋め込み、土台を強固にした。「当時は庄内地域でも大変珍しい工法でした。実は高梨さんからは「必要ない」と言われていたのですが、新潟地震の教訓があったので工事を行いました」と清相談役は語る。
おかげで、先の東日本大震災でも、補修が必要な建物の被害はなかったという。
1000年は使えます
仁社長が、「この旧校舎は、地元の良質な杉を使った貴重な建物です」と評価すれば、清相談役は、「良質な材木は、使い方を誤らなければ樹齢の10倍は長持ちするといわれています。ですから、100年杉が多く用いられたこの建物は、手入れさえしっかりと怠らなければ、1000年は使えますよ」と強調する。
(Future SIGHT 2014秋号「歴史を語る建物たち」より抜粋・一部修正)